Archive for the ‘BOX ART’ Category

パックス・アメリカーナ…第二次大戦に勝利し超大国としてアメリカの全てが輝いていた時代。オールディーズ&グッディーズ、

そこには人種問題も?貧困も?格差も?エネルギー問題も?核の脅威も?なく、楽天的陽気と機械文明礼賛とハリウッド的能天

気が充溢していた。敗戦国の少年としてGI(進駐軍)が捨てていった古本の「LIFE」「Seventeen」「McCall’s」「Esquire」

「New Yorker」「TIME」などの雑誌は目眩く夢の世界だった。そのカラー刷りの広告にはシズル感たっぷりのステーキや輝く

ばかりの新車が妍を競って艶やか此の上なかった。まだ日本では木炭車や三輪のバタバタさえ珍しかったのだ。そして「スチュ

ードベーカー」、この響きにはカルフォルニアの陽光とラッキーストライクとバーベキューの香りが立ち上るのだった。やがて

冷戦の影が忍び寄り、朝鮮戦争、キューバ危機、ヴェトナム戦争、繁栄の裏側も知られるようになった。60年代、まだ雑誌はき

らびやかな広告に溢れていた。いまは無きPONTIAC・ポンティアック車の広告なんて!AF/VK、アート・フィリッツパトリック

(自動車描写)とヴァン・カウフマン(背景描写)のコラボレーションによる イラストレーションはあまりにもカッコ良過ぎた。

http://www.fitz-art.com/home.htm …こんなの見ると僕の絵なんてとても恥ずかしいけれど。Studebaker champion 1950だ。

それはアメリカのライフスタイルの理想なんですね。ぼくもこんなイラスト(レンダリングやパース:当時は筆による手描きだ

った。いまやレンダリングといえばPCの3Dだ)が描きたくって水張りケント紙にポスターカラーで随分努力したのだが…..。

とてもとても描きゃしない。だって背景の生活感なんて未知の世界だものね。またDBBによるVW・カブトムシの広告もそのアイ

ディアに脱帽したものだ。日本にもアドバタイジングという言葉が定着してきて広告業界の仕事は憧れの的だった。…いまは半分

後悔しているけどね……いつしかネット時代になり全てはPC作業、デジタルが空中を飛び交う世界だ。ぼくも毎日PCお相手にイラ

ストレーションも大部分はPCで描くが、マニュアルを決して忘れないつもりだ。だってそうでしょう。

手や指先で描けない人がどうしてモニターやタブレットやキーボードで描ける?….ぼくって古いのかしら

飛行機乗りのヴィーナス。そう、主に第二次大戦のアメリカ軍用機に描かれた美神たちだ。殺し合いの道具にピンナップガールや様々

なアイコンを描いたのをノーズアート・Nose Artという。いかにもアメリカ人らしい発想でエスクアイア誌なんかの折り込みページの

アルバート・バーガスやピーター・ドライベンが描いたセクシーなバーガス・ガールの絵をみて、ちょいと絵心のあるやつが、そいじ

ゃオイラが描いてやろうと故郷の恋人や女優を機体の愛称にしたのだ。もちろんA-I、A-2やB-3ボマージャックにもド派手なのを描いて

いる。その下手さ加減が何ともいいんだ。わが帝国陸海軍は「かしこくも陛下よりお預かりした…..」で、とてもそんなものは描けなか

ったけれど、しかし末期には勇気を鼓舞するために稲妻や矢印、虎の絵なんかを描いている。

古くは第一次大戦のレッド・バロンことリヒトフォーヘンの真っ赤に塗られたフォッカーDr1やギンヌメールのコウノトリが始まりだ

ろう。日本では加藤隼戦闘隊で有名な胸に描きし赤鷲の…か。そしてフライングタイガースの機首に描かれたシャークマウス、これは

ヴェトナム戦争のF4ファントム、現代ではゴツい地上攻撃機A-10まで続いている。

まあ、殺戮道具に陽気な絵を描く神経は日本人の考えとは相当に隔たりがある。アメリカのエスクアイア誌の初号(1934年)から戦前

戦後のバックナンバーの殆ど見た事があるのだが、あの30〜40年代にその贅沢さ、ファッションのカッコ良さといったら…、華麗なる

ギャッビーを彷彿させるのだ。戦前に豪華な車、冷蔵庫、テレビ、ゴルフ、テニス、イブニングパーティ、カクテル….。

フェローズの描くファッション・ページを見ただけで「ああ、こんな国ととても戦争なんてできゃしない」と思ってしまう。当時の日

本人のホンの一部を除いてエスクアイア誌なんて知らなかったし(20年代からのモボモガ新青年も30年代になると戦時色に塗りつぶさ

れていく)、たとえ見たとしても「アメリカは贅沢に慣れ怠惰である。色情に溺れ困難に打ち勝つことができない弱兵である…」。

硬直したこんな科白を本当に吐いていたのだから、その世界観たるや。だからB29のノーズアートを見ても、戦争に真面目さが足らん!

と怒ったのじゃないだろうか。いまじゃもう、アメリカでSUSIなんか食ってる連中ね、SUSIはヘルシーでオシャレでインテリジェンス

があるなどと宣う。またN.Y.の街や地下鉄は一頃、落書きだらけで恐ろしく汚かった。それもアートだとさ。隔世の感がありますね。

あれは僕が小学校に行く前だった。朧げで遠い微かな記憶を手繰っていくと、デザインの原点に行き着くように思える。男の子の通例

として機械のメカニズムやダイナミックなものが好き。好きだから絵に描いたり模型を作ってみたい。それは到底手が届かないものを

現実に引き寄せ、たとえ絵であって模型であっても所有することによって憧れの飢えを満たす行為なのだろう。当時は満足な紙や鉛筆

さえ無かった。親が不憫に思ったんだろうね。安物のハトロン紙全版を与えてくれてそれに絵ばかり描いていた。

そして西宮で開かれた「アメリカ博覧会」1950年 http://www.youtube.com/watch?v=M42FSkgK6OI に連れて行ってくれた。

ああ、目くるめくとはこのようなものだ。まるでパノラマ島奇談だ。驚異!感動!好奇!かっこイイーッ!目をパチクリ!オシッコが

漏れそうだった。かすかな記憶の底にナイアガラ瀑布だのブロンディの家なんかがあったように思う。そしてカラフルなスチュードベ

ーカーやポンティアックがあって、運ぶ時にぶつけたのだろうかフロントが滅茶苦茶になった車が飾ってあった。夢の夢の車がもった

いない….。もう一つB29のライトR-3350サイクロトン・エンジンのカットモデルが。ふーん、星形エンジンとはこんなふうに….。

極めつけは原型がB29のボーイング 377 ストラトクルーザーだ。超空の巡航機「空飛ぶホテル」その名にふさわしく超豪華で、2階構

造、ベッドがあり(当時の言葉で寝台と言いたいね)、男女別の洗面室、また、1階客室にはバーやソファ付きの豪華なラウンジがあ

ったのだ。そうだ、1954年にM・モンローと元大リーガーのJ・ディマジオが米兵の慰問をかねてハネムーンで来日した際の飛行機だ。

ああ、アメリカ博覧会、ストラトクルーザー、なんて、なんて、カッコいい!アメリカ万歳!まだデザイン(日本では図案と言って

いた)という言葉も知らなかったけれど、なんて贅沢で豪奢で、カッコいい(デザイン)なんだ。ぼくも大人になったらこんなカッコ

いい仕事をしヨ!….そうしたらレイモンド・ローウィが日本の煙草「ピース」のデザインをしてね。濃紺に金の鳩だ。(ノアの箱船を

イメージしたのでしょうね。戦後復興を鳩とオリーブの枝に)当時ギャラが150万円!信じられない!たった箱一個パッケージがだよ!

敗戦後の国民が食うや食わずの生活に追われていたニコヨン(失対事業として1日の労賃が240円)時だ。今だったら数千万円?…

いやこの平成窮塞のPCで形だけのデザインならせいぜい15万ってとこか!!…嘆息。

…..子ども心に思ったものだ。デザインだ!(果たしてこの道が正しかったのだろうか?)何となく後悔もありますね。

そんな古い事をなぜそこまで憶えているかというと、あまりの衝撃にボーッと夢見てたんでしょうね。今思えば帰りに今津駅の乗り換

えでぼくは迷子になってしまったのだ。メソメソしていると駅員さんが剣玉で遊んでくれた。小一時間くらいして慌ててお袋が迎えに

来てくれた。……いつか飛行機に乗りたいなーッ!そうしてやっと海外旅行に行けるようになった。もう時代はジェット機でボーイング

707やダグラスDC-8だった。でもその原点には夢のストラトクルーザーがあった。それを描いてみた。機体は絶対にパンナムでなければ

ならないんだ。PANAM…その響きは憧れの言葉。みなさんも覚えがあるでしょう。昔、航空会社がくれるフライトバッグ。ビニールの

安物なんだが輝いていましたね。そうそう、アメリカから帰る時、日付変更線を超えるとスチュワーデスが振り袖に着替えて、お寿司と

お蕎麦なんかが出ましたね。洋モクや洋酒を限度いっぱいまで買い込んでね。それにしても現代の空の旅は味気ないね。

「空飛ぶホテル」なら「エコノミークラス症候群」なんか知った事か!ですね。

 

 

 

もう半世紀以上も前の遠い話である。朝鮮戦争が激しさを増した頃、親たちが新聞記事を前にかっての街の思い出を語っていた。

引揚者である我が家は新義州という街に住んでいたそうだ。「鴨緑江の橋や新義州も爆撃で壊滅したみたいだ。水豊ダムもやられた

ようだ…..」。「あの日本中を焼け野原にした憎たらしいB公もソ連のミグにバタバタと落とされているそうだ」。…そんな話だった。

….当時はニュースといえばラジオ、映像は新聞写真、動画は映画館のニュースでしかなかった。その時だ新聞に北朝鮮軍のパイロッ

トが亡命(
どうも当時の米軍は、Mig15を持ってきたら10万ドルの賞金
を出すと共産軍相手に宣伝していたようだ)。兄が雑誌「航

空情報」を買って来た。見とれましたね。その写真の鮮烈な事といったら!無造作に断ち切ったような先端のインテーク、太い胴体、

鋭角な後退翼、巨大な尾翼、37ミリと23ミリの機関砲…。直線翼のF80シューティングスターや米海軍のF9Fパンサーじゃ歯が立たな

かった。後退翼のジェット戦闘機、それだけでその言葉に昂りを感じたものだ。早速、木切を削ってミグのソリッドモデル作りだ。

アメリカ軍もミグに対抗するため後退翼のF86セイバーを投入、北朝鮮上空でドッグファイトを繰り広げた。ノースアメリカンF86

はP51マスタングをそのままジェット化させた観があった。ミグの無骨さと対照的に全てにバランスの取れた美人なのだ。そしてミ

グを16機撃墜したエース、ジョゼフ・マッコーネルの映画が公開された。「マッコーネル物語・Tiger in the Sky」。なーに、映画は

詰まらない英雄物語なんだが、主演はあのシェーンのアラン・ラッド、相手役がジューン・アリソン(彼女は何故か軍人の若奥様役

が多い。ジェームス・スチュワートの戦略空軍命令とか…。当時のアメリカ人の家庭なんて敗戦国の貧しい日本人から見たら輝くよ

うだった。キッチンにはギンガムチェックのカーテンなんぞがあってね)。…その映画ではミグとセイバーの空中戦シーンがたっぷ

りあって、ミグにはF84Fサンダーストリークを使っていた。まだサイドワインダーもない時代で、ブローニング50口径機関砲で勝

負なのだ。他にもウィリアム・ホールデンのトコリの橋、第8ジェット戦闘機隊、ロバート・ミッチャムでF86の追撃機というのも

あった。あれは確か僕が小学校に行く前だったから1950年頃かな?甲子園の親戚の家に行く途中、国鉄の貨車に銀色に輝くドロッ

プタンクが山積みされていた。あれが朝鮮特需だったのだ。そして日本の航空自衛隊もF86を導入、曲芸飛行隊のブルーインパルス

を結成、東京オリンピックで大空に五輪の輪を披露した。そして「ゴジラの逆襲」や「ラドン」なんかの怪獣映画に登場するのも

F86だった。…..B29の絨毯爆撃、グラマンやP51の機銃掃射に追われ、敗戦。あの敗北を抱きしめた日本人、戦争体験者はどんな気

持ちで見たのだろうか? 日本人は案外気にしないんじゃない。切替ることが上手なんだよ。PTSDが軽いんですよ。悪く言えばアイ

デンティティが希薄?大和魂もそんなものか!「鬼畜米英」から「親米」へ、「戦後はデモクラシーやからネ」「よくここまで復興

した」と軽く変身したのでしょうね。

 

「ボックスアート」、そう、プラモデルの箱絵でぜひともに描きたいものがあった。ノースアメリカンP51マスタング、野生の悍馬

というより鍛え抜かれたサラブレッドである。特にバブルキャノピーに変えた決定版ともいえるD型以後、その流麗でバランスの取

れたシルエットはWWⅡの最高傑作機と呼ばれるに相応しい。まさに機体の美しと洗練の極みのデザインである。高速度、運動性、

長大な後続力、B17をエスコートしてドイツ深部にまで侵攻し、太平洋ではB29を護衛して長駆、硫黄島から飛来、空戦して帰るの

だから大したものである。日本軍はその無塗装の銀色に輝く機体と五月蝿さから「銀バエ」と揶揄したという。この「銀バエ」は

ただ者ではなかった。層流翼の採用、高高度性能に優れたパッカード・マーリン・エンジン、胴体後方下部に置いた冷却器、ちなみ

にキ61三式戦「飛燕」も同じ位置に付けているが、その整形や乱流を避けるインテークなどP51が遥に洗練されている。また中国前

線で鹵獲したP-51Cに搭乗した陸軍航空隊の黒江保彦によると(彼はビルマ前線でP51Bと戦っている)P-51を駆って、仮想敵機とし

て日本各地で模擬空中戦を行った。「味方が自信を喪失しないため手加減した」と語っている。「速度は計器通り700km以上は出る

し、急降下速度も優れている。運動性も良い。これに乗ったらどんな敵機だって勝てる」と。そして末期には見越し射撃角がいらな

いジャイロ付K14照準器を備え飛躍的に撃墜率が上がったという。カタログデータではキ-84「疾風」が戦後アメリカ製プラグとハイ

オクタン燃料で689KMを出した云々と贔屓をしたいところだが、粗製濫造による稼働率の悪さ、燃料、潤滑油、活用方法、あの末期

的状況では到底勝ち目はない。

そしてP-51Hは新型のV-1656-9エンジンを積み、自動スーパーチャージャ制御を備え、水メタノール噴射によって最大出力は2,000

HP (1,490 kW)に達した。機体軽量化・出力の増加・ラジエーター形状や機体のリファイン、P-51Hは高度7,600 m (25,000 ft)で784

km/h (487 mph)に達した。当時世界一速いレシプロ戦闘機となった。「Fw Ta152H-1」や「J7W1-震電」と比較したいところだが、

時代はもうジェット機の時代になりつつあった。

ボックスアートというと何故か第二次大戦機になる。まだ操縦者の腕や人間が制御する機械としての魅力があるのだ。殺伐とした戦

争にロマンも何もあったものではないが、飛行服やマフラーに大空の騎士を見てしまうのだろうか。

航空機の設計には空気力学上、合理的でスマートな形状になるはずなのに、そこには設計者のコンセプトやデザイン性、美意識と

いったものが現れている。ここに登場するのは短躯、寸詰まり、太っちょのユニークな機体たちだ。それを醜いと感じるか美しいと

見えるかは見るものの感性だろう。まず、空飛ぶビア樽、ジービー・レーサーだ。1932 年の「トンプソン・トロフィー・レース」に

出場したグランビル兄弟の設計だ。当時の大馬力のエンジン、ワスプを搭載し、強引に引っ張る設計思想で異形の姿となった。

異様に太い胴体、短主翼、垂直尾翼なんて付け足しみたいだ。そのR-1は東京初空襲で有名なジミー・ドゥーリットルが操縦し優勝。

飛行性能はスピードのみ、恐ろしく不安定だったそうだ。だが473.82km/hの陸上機世界速度記録も樹立した。ユーモラスにも感じる

飛行ぶりは強烈な印象があり何か心に残るのだ。R-2レプリカ機の飛行ぶりはYoutubeで見る事ができる。

これも相当短躯な猪武者である。ジービーの影響があるのではないか?旧ソ連のポリカルポフI-16(И-16 イー・シヂスャート)は、

ソヴィエト連邦・ポリカルポフ設計局開発の戦闘機だ。スペイン内戦から第二次大戦初期にかけて労農赤軍の主力戦闘機だった。

世界最初の引き込み脚、カウリング・シャッター、短排気管、防弾、重武装、時代に先駆けた革新機構だ。配備当時世界最速を誇った

が各国の高性能の機体が現れ陳腐化していった。1939年のノモンハンでは我が97式戦と対決、初期には抜群の運動性を持つ97式戦に

格闘戦に持ち込まれ惨敗したが、後半には一撃離脱戦に徹し日本空軍に苦戦を強いたという。

お次はブリュースターF2Aバッファロー、アメリカ海軍戦闘機だ。これも空飛ぶビア樽と呼ばれた。英国に輸出されメッサーシュミット

Bf109と対決したが歯が立たず、極東の日本軍相手なら勝つだろうとマレーやシンガポールに配備されたが、1式戦「隼」や海軍の

「零戦」には手もなく捻られた。映画「加藤隼線戦闘隊」には鹵獲したバッファローと隼の実写空中戦シーンがある。

また黒江保彦がシンガポールで2式戦「鍾馗」の圧倒的な性能差でバッファローに勝利する様が活き活きと描かれている手記もある。

この愛嬌さえ感じられる肥満系の猛禽たち。どうも日本人の繊細な神経ではとてもデザインできない太い線がある。その「太っちょ」

の形態故、ボックスアートの絵になるだろうナ、と長年思い続けてきた。….スリムな美人も素敵だけれど、丸ぽちゃで豊満過ぎの彼女

も魅力的だね。

今でもプラモデルで人気の双璧は「零戦」と「大和」だろう。戦後65年も過ぎたというのに本屋のミリタリーコーナーには大量の

「零戦」の写真集、図版、解説本がある。もう語り尽くしたとも思えるのに続々と新刊がでるのだから好きな人が多いのですね。

やはりアメリカ的な強引とも思える設計思想より、日本という持てざる国だった象徴、その栄光と悲劇の生涯が人気を呼ぶのだろう。

僕もかって人後に落ちない時代があった。中学生の頃「大空のサムライ」坂井三郎空戦記録に感動したのだ。ラジオで「海軍零戦隊」

という朗読もあったし、坂井三郎がTVで血染めの飛行帽を前にガダルカナルからラバウルまでの苦闘を語る番組も見た記憶がある。

「零戦」…重慶上空の完全勝利から真珠湾、ソロモン、そして落日、最後は特攻機として飛び立った悲劇性に性能や形態を超えたド

ラマを見る。僕も本物はNZオークランド博物館の22型、ロンドンのワーミュージアム、靖国の遊就館、国立博物館、昔、地方デパー

トの屋上で巡回展示を見た事もある。精悍というより薄いジュラルミンが弱々しく、よくもまあこれで過酷な空中戦が出来たものだ

と妙な感動を憶えたことがある。設計者堀越 二郎のコンセプトが優れていたからだろう。たった1000馬力で、その長大な航続距離、

重武装、優れた格闘性能、連合国の戦闘機に対し圧倒的な勝利を収めた。連合国パイロットから「ゼロファイター」の名で恐れられ

たという。 しかし所詮は貧乏国日本の技術の粋も、2000馬力という倍のエンジン出力を持ったF6FやF4Uの大群には勝てなかった。

アメリカで見た事があるがヘルキャットもコルセアも何しろゴツい、重量級ボクサーだ。軽量零戦を力と数でねじ伏せてしまう思想

だ。そして見るからに流麗な悍馬P51Dマスタング、横綱級巨体P47サンダーボルト、最後はレシプロの極限F8Fベアキャット……。

もう新しい時代に入っていたのだ。その「零戦」の最後の姿を描いてみたかった。

描くに当たって機体を何にするかで迷った。世の中にはトンでもないオタクがいて簡単に間違いを追求するから写真などで厚木の

302空としたが、いや52型、いや甲だ乙だと言われると全く自信がない。

「ボックスアート・Box Art」、プラモデルの箱に描かれた絵である。それがとてつもなく勇ましくてカッコいいのである。

何時の日にか俺も描いてやろうと決心して半世紀が経ってしまった。最初は「少年」なんかの雑誌の巻頭見開きに描かれた小松崎茂の

戦争画だった。真珠湾奇襲の絵なんて今でも眼前にありありと浮かぶ。97式艦攻が海面すれすれに魚雷を放ち、戦艦ウェストバージニ

アやテネシーに炸裂する巨大な水柱、轟音と機銃音が聞こえてきそうだった。模型を作りたくって木を削ってソリッドモデルを真剣に

作ったものだ。そしてアメリカからプラモデルが登場した。レベルやモノグラム製のパッケージの素晴らしいことといったら!P51マ

スタングが唸り、スピットファイアが蒼空を駆けるのだ。高くて買えないけれど店頭で見惚れましたね。日本でもプラモデル時代にな

りタミヤ模型が小松崎茂に頼んだそうだ。「先生、是非」「わかった、ぼくが会社を救ってあげよう」それが「パンター戦車」だった。

そう、プラモデルはパッケージの箱絵で売れるのだ。そのアートが決めてなのだ。完成した喜びへ誘うのだ。作りたいッ!と。

その点小松崎茂にはドラマがあるのだ。飛行機や軍艦が生きているのだ。僕も彼のボックスアートに魅せられて幾つも買った。一番の

印象は艦上偵察機「彩雲」だ。「我に追いつく敵機なし」その電文が聞こえてきそうだった…..。彼は「戦艦大和」がライフワークだっ

という。火を噴くヘルダイバー、爆発するアベンジャー、奮戦する大和。だが、今見るとポスターカラーで描かれたそれはどぎつく妙

に明るいのだ。大和の悲劇性や慟哭が感じられないのだ。そうこうするうちにペーパーバックの表紙絵に生頼範義が現れた。泰西名画

を憶わせる暗く粗いタッチの背景、短縮法を取り入れた異常に圧縮された軍艦、悲劇性のドラマの幕開けだ。まるで「橋の上のホラテ

ィウス」なのだ。…..早く橋を落としてくれ、私は仲間とともにここで敵を食い止める。さあ、私の横に立ち橋を守るのは誰だ?…….

カラヴァジョが太平洋戦争を描けばこうなる。そんな気さえしてくる。ああ、僕にはとてもそんな絵は描けないし時間もない。

だけれど描いてみたい。できればキャンバスに油で、いやアクリルカラーでもいい。ドラマを呑んだ存在感ある軍艦や飛行機を…。

やっと半世紀ぶりに描いてみた。それも大部分はPCというキャンバスで。でも描く過程は普通の絵と同じ。マウスという筆でタッチを

利かせてサッサッさと。やはり平筆や面相筆で息を凝らして塗る方が楽な気もするが、手が汚れないし筆を洗う必要も無い。その点は

イージーだけれど、マ、いいか。黒鉄の威容、聳える艟艨、鋼鉄の夢、そんなのが少しは描けたかしら。