Archive for the ‘映画/お楽しみはこれからだ’ Category

そう、あの頃、暗闇のなかで見た映画。何故か心の隅に沈積し、普段は忘れているのだが時折りかすかな香りとも光景ともつかぬもの

が漂い、もう一度見てみたいという衝動に駆られる。あのスクリーンに魅入れられ没入したものは….。いま見れば詰まらないのかも知

れないが、その朧げな映像の断片が眼前を過るのだ。この情報の時代だ。探せばDVDで発売されているのもあるだろう。しかし、場末

の映画館でぽつねんと一人見入っいた時、ENDマークまで通常世界の時間は完全に止まっていた。あの暗闇のなかで….。

● 「独立機関銃隊未だ射撃中」(1963)監督:谷口千吉 佐藤允出演とあったので題名からも独立愚連隊モノの新作かと思った。

 ….敗戦間近のソ満国境、トーチカに立て籠る日本軍に嵐のようなソ連軍が迫る。閉塞したトーチカの中だけが舞台、秀作です。

● 「沖縄健児隊」(1953)鉄血勤王隊の少年たち。爆薬を背負い戦車に肉薄する少年兵、「戦艦大和が来るぞー!大和はまだかー!」

 絶望のなかでは嘘と分かっていても微かな望みを叫びたくなる。そんなシーンがあったように思える。なにしろ、ぼくはほんの子ど

 もだった。暗闇のなかで堪らなくなり泣きました。「ひめゆりの塔」、「きけわだつみの声」も同じ頃でしょうか。

●「泳ぐ人」(1968)不思議なイントロである。逞しい肉体、スイムパンツだけの男が林のなかからプールサイドのパーティに…..、

 眩しげに空を見上げ、そうだ「泳いで帰ろう」。友人たちのプールを泳ぎ過ぎながら男の過去や本当の姿が浮かび上がってくる….。

●「ある戦慄」(1967)N.Y.の深夜の地下鉄、乗り合わせた様々な人々、そこに凶悪な二人のチンピラが乗り込んでくる。傍若無人の

 振る舞いに乗客たちは。ああ恐ろしい。暴力の前の人間、あの乗客の一人が僕だったら….見るのが堪らなくなる。

● 「秘密殺人計画書」(1963)この面白さ!大物俳優が意外な姿で。フィリップ・マクドナルド原作/ジョン・ヒューストン監督。

 ジョージ・C・スコット、トニー・カーティス、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ロバート・ミッチャム、フランク・シ

 ナトラ等が変装とトリックを駆使して…。最後に「皆さん分かりましたか?」ああ、もう一度、ぜひ、是非とも、見てみたい。

●「銃殺」(1964)監督:小林恒夫、主演:鶴田浩二。霧の中から兵隊が行進、歌声が聞こえる。〜汨羅の渕に波騒ぎ 巫山の雲は乱

 れ飛ぶ  混濁の世に我れ立てば 義憤に燃えて血潮湧く….. 世界恐慌の波は日本にも吹き荒れ、世相は悲惨と混乱で疲弊していた。

 東北では娘たちの身売りが….祖国を憂える青年将校達は二・二六事件を…。ほとんどの2.26映画は見たし、文献、小説等も数多く

 読んでみたのだが、この映画が当時の世相と蹶起の心情を一番映しているように感じた。処刑シーンは史実を踏まえて圧倒的。

●「シェラデコブレの幽霊」(1964)あまりに恐ろしい映像描写で試写会で体調が悪くなる者が続出した…の伝説がある。(ダリのア

 ンダルシアの犬も当時失神する女性が続出したと言う)確かポジネガ反転による幽霊映像の記憶がある。世界に2本しかフィルムが

 残っていないそうだ。その1本は日本にあると噂に聞く。昔、TVの洋画劇場で見た。DVD化されないものだろうか。

「マスター・ガンファイター」(1974)五社英雄の「御用金」そのもの。舞台を西部に移して。連発銃と刀を持った流れ者が、権力

 の横暴と戦うのだが。監督はフランク・ローリン、「御用金」では竹馬の友でありながら戦う仲代達矢と丹波哲郎、かじかむ指に

 息を吐きかけながら….背景は海岸で漁民達の御陣乗太鼓が勇壮に鳴り響く…。アメリカ版ではインディオたちが仮面を被り太鼓を打

 ち鳴らし、…そこまでソックリにやるか!

● 「恐怖の振り子」(1961・AIP:B級映画専門?)E・A・ポー原作「振子と陥穽」異端審問にかけられた男に巨大な刃物の振子が刻

 一刻と迫る。シャー、シャー……。まあB級映画なんだが、何しろ脚本がリチャード・マシスンだ。ロジャー・コーマンが「アッシ

 ャー家の惨劇」(1960)に続いて発表した作品。続いて「赤死病の仮面(1964)。それにしてもポーの原作を彼の詩のように格調

 高く美意識と幻想を文学的、芸術的視点で描いた映画はないのか?「世にも怪奇な物語」のウィリアム・ウィルスン(アランドロ

 ン)はなかなかだったが。写真集では「黒夢城」サイモン・マースデンが素晴らしい。そこには崩壊した古城、苔むした墓地、
闇

 に浮かびあがる黒猫、幻想的いにしえの怪……。また、マシスン原作の「地獄の家」これは傑作。低くドロドロと鳴動する太鼓とベ

 ラスコの亡霊が….。それにしてもリチャード・マシスンは才人ですね。

●「眼には眼を」(1975)シリアの小都市、仏人医師 (クルト・ユルゲンス)、医師の怠惰さで現地人の妻が死ぬ。その夫である男

 の復讐譚。砂漠を彷徨し、炎天、渇き、医師は叫ぶ。「殺してくれ、死んだほうがましだ!」。男は言う「俺も女房が死んだ時そ

 う思った。その思いをおまえに言わせたかった」。最後に男は街の方向を指し示す。男を信用しない医師は反対の方向に歩き始め

 る。…カメラが引くと行手には茫漠と連なる荒れ果てた山々だ。….

●「悪魔の発明」(1958)チェコのアニメーションの巨人カレル・ゼマン:ジュール・ヴェルヌの同名原作を映画化したSF冒険活劇。

 背景はギュターブ・ドレか?ノスタルジックなエッチング。アニメと俳優の演技を合成。独創的な不思議世界を構築していた。


●「殺しのテクニック」(1966)
監督:フランク・シャノン、
出演:ロバート・ウェバー。…..狙撃銃の慎重なサイト合わせ…NYに

 向う…朝焼けに浮かび上がるマンハッタン。ビルの屋上からの狙撃、ライフルの組み立て、
風向、細かい描写がたまらない。
相棒

 の生意気な殺し屋が何と!あのフランコ・ネロだ。これぞB級映画の王道である。…..日本でも加山雄三主演
「狙撃」(1968)、

 殺し屋森雅之が襲いかかる犬の群に7.62ミリ・モーゼルC96で…。ゲバルトなんて言葉が流行った時代でした。

 そして、あの蠍の目の男ヘンリー・シルヴァ「二人の殺し屋」これもいいんだな。

●「ソルジャー・ボーイ“Welcome Home”」(1972)ベトナム戦争から帰還した4人の若者がカルフォルニアに向う、人々の眼は冷た

 い。「俺たちは祖国のために戦ったのじゃなかったのか?」。様々な冷酷な仕打ちにとうとう….田舎町で武装し皆殺しを…戦争に傷

 ついた青春の哀しさ。監督:リチャード・コンプトン、出演:ジョー・ドン・ベイカー、ポール・コスロ…..。「アメリカは遂に俺た

 ちを愛してくれなかった」。

●「探偵スルース」(1973)流石はミステリーの帝国である英国劇だ。たった二人だけしか登場しない(三船敏郎とリー・マービンの

 「太平洋の地獄」も二人だけで)L・オリビエ&M・ケインが丁々発止と火花を散らし、変装と演技合戦でいかに相手を出し抜くか

 が見物である。豪壮な大邸宅のラビリンスの庭で….。

●「価値ある男」(1961)メキシコ映画、あの世界のミフネが、酒浸り、乱暴者、打ち買う、神頼み、の愚か者を演じる。なぜ価値あ

 る男なのか? 最後のシーンで哀しくもある男の姿….。

ああ、ウーン、見てみたい!

  

 

B級といえばB級グルメの真っ盛りである。日本のブログの大半はこれで占めているのではないか….そんな気がする今日この頃である。

まあ、食べることならたいして罪が無いからいいのだけれど、食べログなんてステマ(ステルスマーケッティング、つまりヤラセが

多いと報じられた。まあ行政も原発電力会社もやっていることだし….)。かってはレコードにもA面とB面があり、世間でBクラスと

いえば小馬鹿にした響きが感じられる。映画だってそうだ。文芸大作だの、芸術作品だの、構想十年、数百億ををかけただの….。と

ころがB級は低予算、速撮り、大物スター出演なし。しかしアイディアと奇想天外さが売物だから、こりゃ面白い!に徹する訳だ。

一種の爽快感ともいえるナンセンスとアホらしさが嬉しいのだ。キッチュの味とも言える。要はエンターテインメントなんだよ、活

動写真なんだ。目くじら立てなさんな。…..これだね。でも放浪癖の香具師のオッサンの話だの釣りキチサラリーマン物語。ああ、止

めてヤメて!見ているこちらが恥ずかしい。釣りの話しならR・ハドソンの「男性の好きなスポーツ」スラップスティック・コメディ、

ピンク・コメディとも言いましたね。ドリス・デイの大ファンでした。「夜を楽しく」とか「恋人よ帰れ」これはマジソン・アベニ

ューの広告屋のお話し。何と笑うハイエナ、R・ウィドマークも「愛のトンネル」でドリス・デイと。….悩みなきパックス・アメリ

カーナの時代ですね。おおオールディズ&グッディーズの日々よ。プレスリーも青春ものに粋なアンちゃんでね。

最近はスプラッターだの、CGだの、血飛沫と悲鳴と醜悪さとヌルヌル、ぐちゃぐちゃ、生理的不快感にこれでもか、これでもか….と。

もう食傷してかえって詰まらないんですね。そう、品性を忘れたところに映画の末期的形相が見えてしまうのだ。

…あの期待に胸弾ませながら暗闇に座った密かな楽しみ。まだポップコーンもコカコーラも珍しく、トイレの匂いがかすかに漂う場末

の映画館。二本立て三本立ては当たり前、四本立てを見た事がある。….時間がゆっくり流れていたのですね。当時は二本立てが常識だ

ったから、A面は文芸大作でB面はおまけみたいなものだから喜劇や肩の凝らないイージーなものが多かった。森繁の「社長シリーズ

なんかね。いまでもカンズメ会社の宴会のCMソングを歌えるのだ。カーン、カーン、カンズメカーン、クジラだー…..松林宗恵監督に

乾杯。「獣人雪男」子どもだったけれどポスターを見て血が騒ぎましたよ。「電送人間」当時はファックスさえ無かったし、まさにイ

ンターネットの先取り?洋画「蠅男の恐怖」の影響でしょうね。「ガス人間第一号」これが好きなんだ。八千草薫さんの美しいことと

いったら!色白で清楚でつぶらな瞳に小さくぷっくりした下唇。ガス人間でなくても崇拝しますよ。落ちぶれかけた踊りの名取りなん

だが、新作発表の題名は「情鬼」なんですよ。夜叉能面の下に綺麗ったらありゃしない八千草さんだ。爺やの左卜全がまたいい。そし

て最後が哀しいですよね。「美女と液体人間」「マタンゴ」、松竹では「ゴケミドロ」なんてのも、何とシャンソン歌手の高英夫も出

演。東宝映画では水野久美さんの眩しい肢体、白川由美さんのクラブ歌手、土屋嘉男、中丸忠雄、平田明彦たちが常連….、本多猪四郎

監督に敬礼!…そしてダ、これは極悪B級、いやZ級、極悪、邪道、隠れた傑作?あの新東宝・大蔵映画のキッチュの極めつけ「地獄

(1960)ですよ。ダンテ・アリギエーリも真っ青(恐らく下書に)、おどろおどろしくも死装束に額に三角形の紙冠をつけを亡者の大

群が地獄を行進するシーンなんざ、絶句!何と閻魔大王がアラカンなんですゼ。大霊界の丹波哲郎が出ていないのは残念、でも彼は今

頃あの世で?….そういえば題名は忘れたがロビン・ウィリアムスの地獄に行くのもありましたナ、こりゃ結構いけますよ。

洋画でも嬉しくなるのが「大アマゾンの半魚人」とか、凄いのは題名が思い出せないのだが宇宙から巨大蜘蛛が襲ってくる、それがフ

ォルクスワーゲンに毛皮を被せて巨大な脚をつけてゆらゆら走らすの。トリックがまる分かりで大爆笑でしたね。どなたか題名を教え

てください。「バタリアン」とか世界で一番下品な人間「ピンク・フラミンゴ」ゲーッ!とか…。。「エルム街の悪夢」この頃はまだ

真面目に見ていたのです。そうそう「トレマーズ」、巨大な芋虫が地中を猛スピードで突進する。あのケビン・ベーコンさん、やはり

出ていましたね。大ファンですよ。「振動をあたえるなッ!」なんてね。これをコントロールしたら「黒部の太陽」でも、ヒマラヤ山

脈をぶち抜くなんざ….土建屋が喜ぶぜ。「ベルリン忠臣蔵」サムライ大好きのドイツ人がいじらしい。「悪魔の毒々モンスター」日本

人の父に会いにNYからウィンドサーフィンで日本に渡るやら、丸の内のビジネスマンの丁髷やら、鼻が鯛焼きになるやら…。

カタコンベ」落ちのあまりの陳腐さに絶句。「死霊の盆踊り」あまりのアホらしさの都市伝説と噂に恐ろしくて未だ見ていない。

マチェーテ」無茶苦茶なんだが大物俳優出演、R・デニーロ、S・セガールが出ていた。「SAW」は汚いけれどなかなかの出来。

CUBE」アイディアに感心、脱帽!たぶんルービックキューブで遊んでいて思いついたのだろう。大好きな「マスク」「ジュマンジ」

これはアイディアが素晴らしい…A級か。そして「マイケル・ムーア監督のTVシリーズ、「恐るべき真実」正直唸りましたね。マクド

ナルド食い過ぎの監督が突撃、警官に撃たれないために派手なオレンジの財布を配ったり、裏切り者ミッキーマウスを蹴落としたり。

…..おまえはこんなナンセンス物しか見ていないのか!とお叱を受けそうなので自己弁護を。…..ン、確かに否定はしないがぼくはATG

(アートシアターギルド)の初会会員だったんだゾ。あの小難しい映画を分かった振りして通っていたんだゾ。エイゼンシュテインも

タルコフスキーもベルイマンもフェリーニも小津 安二郎も溝口 健二もみんなみんな素敵だった…..。

そう、A級もB級もC級もZ級までも含めて映画が青春だった。

I’ve written a letter to Daddy  His address is Heaven above  I’ve written “Dear Daddy, we miss you

And wish you were with us to love”   Instead of a stamp, I put kisses

……お父さんに手紙を書いたわ….舞台で愛らしもこましゃくれたベビー・ジェーンが歌う。….時は過ぎ古い屋敷に年老いた姉妹が暮ら

す。かって名子役で一世を風靡した妹のジェーンはアル中で昔の夢が忘れられない。大女優であった姉のブランチは車椅子の生活だ。

この姉妹の心の中の鬱憤、葛藤、陰湿、幻想、憎悪、残酷、狂気。そして醜悪と滑稽と哀れさと、感傷など無縁の狂気迫る世界だ。

それにしてもベティ・デイヴィスは凄い!まさに怪演。あの「イヴェの総て」の大女優が醜怪な厚化粧の老醜を曝して見事に演じる。

まあ、「八月の鯨」では心温まる老婆を演じたが。ほら、ピアノ教師が古い楽譜を弾き始めると二階からジェーンが満面の媚びで下り

て来る。踊り歌う….It’s a wonderful! このシーンにはゾクゾクしてきますね。何て映画作りが上手いんだろう!そう、アルドリッチだ

からだ。これぞプロフェッショナルだ。ロバート・アルドリッチ監督の映画はどれを見ても頗る面白い。まずテーマとアイデアが凄い。

異様な状況設定のなかの人間を描くのだ。そしてハラハラドキドキ観客をいたぶる技巧に冴えているのだ。徹底してセンチメンタルを

排したハードボイルドである。骨太である。汗臭い。異端である。男達の面構えが不敵である。執念がある。怒りがある。憎悪がある。

心理サスペンスが深い….。こんなことをいくら書いても映画を見れば分かる。

初めて観たのが「攻撃・Attack」(1956)だった。気力を振り絞りジャック・パランスが神に祈る…どうかもう1分間だけ生かして下さ

い。絶叫の形相のままの死。これぞ西部劇「ヴェラクルス」(1954)だ。バート・ランカスタターの不敵な笑み、真っ白な歯がニカッ!

舞台は南北戦争後の動乱のメキシコ、ガンマンたちの悪相、息もつかせぬ展開、革命軍や太陽のピラミッドで有名なテオティワカンの

古代遺跡群を背景にヴェラクルスに向う、最後の決闘シーンなんて世界中が真似したのだ。主役を喰うとはこのことだ。

北国の帝王」(1973)これまたホーボー対鬼車掌、無賃乗車のプロ、車体の下に隠れたをホーボー追い出すのに分銅を線路に踊らすな

んざ….。「飛べフェニックス」(1964)冒険小説好きにはこたえられません。「何がジェーンに起ったか」(1962)….またグロリア・

スワンソンの「サンセット大通り」(1950)監督ビリー・ワイルダー。その最後のシーン、カメラの砲列、フラッシュ、アクション!

往年の大女優が妖艶のオーラを放ちながら迫ってくる。……鬼気迫りますね。

ロンゲストヤード」(1974)刑務所で囚人対看守のフットボールでの闘い。エド・ローターがいいんだ。連中の凶悪なこと、黒澤の

「用心棒」、丑寅の子分達を想像させますね。「燃える戦場」(1970)高倉健出演、両軍を隔てる広場をひたすら駆ける。これが撮り

たかったのか?….アルドリッチには他にもたくさんあるのだが、どれもこれも秀逸です。

彼の作品は決して文学作品や芸術作品ではない。映画の職人でありプロフェッショナルだ。観客をハードに喜ばせてくれるのだ。残念な

がら一部を除いた日本評論家たちにはこの面白さは分からないのだ(まあ、岡本喜八、五社英雄、三隅研二監督はいたけれど)。貧乏臭

いウジウジした私小説的世界が映画だと思っている連中にはね。アメリカという風土が生んだデザイン手法なのだ。Esquire誌のジョー

ジ・ロイスやTIME誌の表紙にあるのと同じアイディアの根源なのだ。小説家・監督であったマイケル・クライトンも同じだ。「ウェス

トワールド」のブリンナー扮するロボット、これはターミネーターのネタじゃないか!….ロバート・アルドリッチ、観客の心に対して

ダイナミックにデザインしているのだ。これぞプロフェッショナルの仕事だ。

「去年マリエンバートで」。ストーリーはあるようでない。ストーリーを追うこと自体が無意味である。人は映像や言葉に時間の因果関

係を結びつけ合理的解釈を無意識に行ってしまう。だから観客による想像力がストーリーやそれに伴う感情起伏を作ってしまうのだ。

まあそれによって映画や文学も成り立つているとは言えるのだが…..。バロック風の巨大で不気味なホテル、果てしなく続く廊下、足音

は絨毯に吸い込ま.まるで耳自体が…古い時代の回廊….大理石….黒ガラス….黒っぽい絵、円柱….一連の回廊、交差する

廊下は無人の広間に….広間は古い時の装飾過多、無人で静かで冷たく装飾過多で……男の独白で続く画像は押さえたモノトーン

で限りなく美しい。「芸術のための芸術」があるのかどうかは知らないが、「映画のための映画」「映像のための映像」が存在しても

いいはずだ。「去年あなたに会った」「知らない、憶えていない」…こんな会話が繰り返される。…

まるでホテルも装飾も人物も凍りつき無限循環を繰り返すように。…いや全ては死に絶え、かすかな記憶の底に亡霊となった建物と人物

が彷徨い歩いているのだろうか。何が現実であり何が真なのか?果てしない問いだけが繰り返される。過去と現在、真と偽、現実と想像

が混在し何が真実かは解らない。男は主観的な体験を語るが、執拗に描写すればするほど不確定になり、観客は理解しようとすればする

ほど理解できない世界が現れるのだ。男は客観性の外観を装いながら、実際には記憶、夢、想像にしか過ぎないものを語っている。もし

かしたら、粒子の位置と運動量は同時に両方を正確に測定することができない量子力学の「不確定原理」が根底にあるのかも知れない。

そう、真の現実とは映画館、フィルムと映写機、それは暗闇の中で、単なる光と機械と一時間半の時間にしか過ぎない

それを知りながら目に映る映像、科白、音楽、フィルムに焼き付けられた映像を、想像力が擬人化し時間の因果と不合理の渦に落ち込む

のだ。それを狙った手法はシュレアリスムそのもでありSFなのだ。凍りついた庭園のシーンはルネ・マグリットやキリコを彷彿させるし

女はポール・デルボーを思い起こさせる。ヨーロッパには超現実主義の芸術運動が背景としてあるから、シナリオ、映像、音楽でそれを

作ろうとしたのだろう。古くは1928年にルイス・ブニュエルとダリが「アンダルシアの犬」を作っている。そして写真家マン・レイが

いた。…シュレアリスムは見る者、観客の想像力を刺激するものであり、異様であればあるほど不思議な世界に誘われてしまうのだ。

有名なロートレアモン伯爵の「解剖台 の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会い…」ように。ロブグリエは語る「あの映画は記憶に救いを

めることを一切不可能にする、永遠の現在の世界である。彼らの存在は、映画がつづく間しか持続しない。目に見える映像、

耳に聞こえることば以外に、現実はありえないのである」と。

 もう半世紀以上も前の話だ。田舎出の生意気な高校生であった僕は何か知的なものに非常な憧れがあった。デザイン・美術系の学校

あったせいもあるだろう。その頃ATG・アート・シアター・ギルドという創造的な映画を観賞する会が出来た。大阪北野シネマだ。

第一回はイエジー・カワレロウィッチの「尼僧ヨアンナ」(1962)だったと思う。難解だったけれど映像が素晴らしく美しかった。

そし安部公房作「おとし穴」監督:勅使河原宏…田中邦衛の殺し屋が不気味だった。丁寧な言葉使いで「わかりましたね…」なんて。

ジャン・コトーの「オルフェの遺言」…鏡の中へ入っていくシーンなどCGなど皆無の時代だからフィルムの逆回しや鏡は水に手をいれ

て、それを縦にしたのだろう。..ATGではタルコフスキー、ワイダ、ベルイマン、トリフォー、カコヤニスなどを知った。そしてアラン

・レネの「去年マリエンバートで」。記憶が曖昧なのだが、確か高校生で見たと思ったのだが日本公開は1964年、東京オリンピックの年

である。記憶とは当てにならないものだ。レネは「ゲルニカ」(京都市美術館で見た)「夜と霧」(ヴィクトール・フランクル:みすず

書房を古本屋で見つけ衝撃を受け、学校の課題のポスターを作った思い出がある)、「二十四時間の情事」も知っていた。

いま半世紀ぶりに見直した。このCG全盛時代に全く古びていない。当時の新しい映画技法を駆使し、二重焦点レンズ、オーバー露光、

サブリミナル、移動撮影、洗練、品性、高センス、インテリジェンス….そしてシュール。いまこんな映画が作れるだろうか?……..

久々におもしろい映画を見た「Black Swan」。バレリーナが至高の芸術を目指して苦闘し、極めるお話かと思っていたのだが、何の

なんの心理サスペンスでありサイコスリラー映画だ。……..バレェ「白鳥の湖」のプリマドンナを目指すニナ、清楚潔白、最高技能、

そう、ホワイト・スワンなら完璧なのだが、「君は官能的で邪悪さを持ったブラック・スワンは無理だ」。と演出家に宣言される。

ここから彼女の苦悩が始まる。娘に自分の夢を託す母親(どこかキャリーの母に似ているね)、そして重圧と葛藤で精神崩壊を起こ

して行くのだ。ヒッチコック的盛り上げなんだが、ヒッチならもっとお上品でユーモアがある…。この映画は生々し過ぎるのだ。

老いて去って行くかってのプリマの無惨さ、置き換わる新しいプリマとしての自分。ブラックスワンを演じるためあえて危険な行為

も厭わない。….幻覚と幻影、現実との交差、自らの肉体を自傷させる自虐性。そうとうにスプラッターだ。

…最後はライバルと争い殺人を犯すのだがだが….情熱的に、蠱惑的で、挑戦的で、完璧に踊り切ったブラックスワン。満場の喝采に

包まれて、そして………この辺はE.A.ポーのウィリアム・ウィルスンみたいだね。多分…..そうじゃないかな。

主演はナタリー・ポートマン(あのレオンの女の子)振付師をヴァンサン・カッセル、監督はアダーレン・アロノフスキー。あの

「π・パイ」、「レスラー」筋書きのあるドラマを演じる老いたプロレスラー、いいネ。…..それにしても我が国の映画は…無言。

垂れ込める暗雲、草木は枯れ果て、雨、雪、寒さ、飢え、すべてが灰に被われ、荒涼と廃墟の世界、襤褸の防寒着を纏いショッピン

グカートを押しながら父と子が行く。核戦争か小惑星の衝突か、天変地異が起った後の核の冬を彷彿させる死の世界だ。その災厄の

日に産まれた息子、10年が過ぎ母は自ら死を選んだ。一緒に死んで欲しいという母の言葉を拒絶し、少年と父親は生き延びるため南を

目指す。道には人を獲物とする「人狩り」食人集団。父は1発だけ残った拳銃を少年に渡し「食われる前に銃口を口に入れ引き金を引

け」と教える。そして自分たちは「善きもの」であり「魂の火を運ぶもの」であるから決して人肉は口にしないと…。

この神さえ死んだ絶望の世界で子どもの純真さだけが救いなのか?

ストーリーやドラマ性もさることながら、必見は映像である。CGを極力控え押さえることでドキュメンタリー的リアリズムを持たし、

灰色に汚れ荒廃した世界が、優れた報道写真のような美しさへと転化される。今まで原作を超える映像の映画は無い「風とともに去

りぬ」が唯一越えた映画だ。との伝説があるが、それは小説という文字の配列、読みから喚起され想像し、作り上げる自分だけの幻想

と映像だからだ。だから他人が作ったものには違和感があって当然だ。しかし「ザ・ロード」は原作に忠実であるとともに、私の場合

はデジャヴュのように共感でき再現された映像だった。それは規模は局地的かもしれないが「神戸大震災」で実感したからか?…

そして思わず前に読んだ「天明の飢饉」を想像してしまった。火山の降灰と寒い夏に、荒廃した土地を捨て人肉を食し彷徨する飢えた

人間を….。飢渇、人間最大のタブーである食人、想像するだけで悍さに身震いするが、一線を超えれば常体と成りうるのも人間だ。

また少年があまりにも無垢に描き過ぎではないかと少し不満を感じたが。あの「方丈記」にある養和の飢饉では、「その思ひまさり

て深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々得たる食ひ物をも、かれに譲る

によりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける」。とある。愛し合う夫婦は、その愛情が深いほうが必

ず先に死んだ。なぜなら、わが身より相手をいたわるので、ごくまれに手に入った食べ物も相手に譲るからだ。だから、親子となる

と、決まって親が先に死んだ。…確かにこれが「善きもの」であり「魂の火を運ぶもの」である人間の人間たる崇高さなのだろう。

愛する者のための自己犠牲は変わらないが、理解としてはキリスト教文化の欧米人と私たちは微妙に異なるところだ。

●原作「The Road」コーマック・マッカーシー(2006年)ピューリッツァー賞を受賞。早川書房。

●映画「The Road」John Hillcoat 監督 ヴィゴ・モーテンセン、コディ・スミット=マクフィー、ロバート・デュバルほか出演。

★よくある終末物テーマで、「マッドマックス2」それをヒントに「北斗神拳」、父と子とショッピングカートで冥府魔道を彷徨う

のは「子連れ狼」そのものじゃないか。関東地獄地震後の「ヴァイオレンス・ジャック」とか、他にも「オメガマン」等など…。

Plain Soleil ….最高の気分サ….。メロディーの美しさ故に胸が締め付けられるような哀愁と切ななさ、ニノ・ロータの音楽に美貌の

トム(アラン・ドロン)。ルネ・クレマンのサスペンス満ち冴えわたる演出、あまりにも青く眩しいアンリ・ドカエの地中海と太陽。

マルジェ(マリー・ラフォレ)の倦怠感と神秘性を漂わした風貌、金持ちの傲慢と尊大さフィリップ(モーリス・ロネ)。映画「太

陽がいっぱい」1960年。あのころはフランス、イタリア、ヨーロッパ映画が輝いていた。ハリウッドにない洗練と皮肉、成熟した文

化や芸術性とも言っていい魅力があった。小さいプロットにもそれらが散りばめられている。マルジェの論文テーマは修道士フラ・

アンジェリコの絵画だ。そしてあのヨットの食事シーン。「フォークとナイフは金持ちに見せたければこう持つんだ」…..屈辱から殺

意が芽生える…。原作はパトリシア・ハイスミス。これにも金持ちを象徴するのにフィリップの父親がトム託す物、それはブルックス

・ブラザーズの製品だ。これだけでその時代、その階級が分かる(余談だが同時代の軽妙さで鳴らしたヘンリー・スレッサーの短編

「怪盗ルビー・マーチンスン」赤毛でドジな犯罪者なんだが、やはり宝石泥棒ではブルックス・ブラザーズのスーツにピンクのピンナ

ップ・カラーで決めている。ウン、分かるよワカル…。貧しい日本の高校生としてはB・ブラザーズなんて遠い国の夢と憧れでしかな

かった。ましてフィリップのクローゼットにあるストライプのブレザーなんてね…エスクアイヤーの世界そのものなんだから…)。

閑話休題、1999年にはマット・ディロンで「リプリー」が作られた。原作が同じというだけで別の映画だから比較するのもおかしいが、

どうしても比べてしまうんだ。そりゃ、ドロンには憧れや卑しさも秘めた水も滴る美貌がある。ディロンの猿面じゃ勝負あり!

こちらの方が原作に忠実だし、時代性を考慮してモダンジャズをフィーチャー。でもね、悲しみがないんだよ。せつない青春がないん

だよ。嫌らしい面が出過ぎるんだよ(アイラ・レヴィンの「死の接吻・赤い崖)1956年、1991年にはマット・ディロンでリメイク。

これも最初のロバート・ワグナーの方がはるかによかったね。つまり、ラスコーリニコフやジュリアン・ソレルなんだよ観客が期待し

ているのは。セオドア・ドレイサーの小説「アメリカの悲劇」の映画化、モンゴメリー・クリフトの「陽の当たる場所」。これも貧し

い若者がはい上がるために…似ているね。まあ、大藪春彦の「野獣死すべし」伊達邦彦も同じ人種なんだ。時代ですよ。第二次大戦で

価値観を喪失したり、また死をたくさん見てしまった人たちなんだ。年齢的にはバロウズ、ギンズバーグ、ケアラックなんかと同じビー

ト・ゼネレーションなんだ。マイク・ハマーだってあのサディズムは戦争が作ったんじゃないかな。..ああ、話が横へそれてしまった。

お許しを。…それにしても今年の暑さはどうだ? 太陽がいっぱい過ぎるから、毎夕生ビールがいっぱいだ。

「北北西に進路をとれ」これは何を意味しているのだ? たぶんヒッチ独特のオトボケで意味なんてないのだろう。サウスダコタの

ラシュモア山はニューヨークやシカゴからは西で北北西じゃない。ノースウェスト航空だとかハムレットが気の狂った振りをして

言う台詞 I am but mad north-by north-west.(私の気が狂うのは北北西の方から風が吹くときだけだ)とか諸説紛々である。

まあ、お固いことは言いっこなし。まずソール・バスのタイトルから素敵だ。斜めの線が交差してタイトルが映り、それがビルの

ガラスの壁面に変わる。プラザホテルのラグジュアリーな雰囲気(当時ケイリー・グラントはプラザに住んでいたので演技じゃな

いそうだ)。そしてあの見渡す限り真っ平のプレアリーというバス停留所でのシーン、飛行機に追いかけられ真昼の大空間が密室

化するわけだ。冒険に次ぐ冒険でラシュモア山の大統領の顔の上でのアクション。巨大なモニュメントと小さい人間の対比がより

緊張感をそそる。「逃走迷路」の自由の女神と同じ発想だね。ああもう墜落する….ロジャーがイブを引上げたと思ったら、それは

寝台車の上段ベッド、列車がトンネルに入りエンドマーク。実際にこんなドラマは現実にある訳はないし、荒唐無稽のホラ話なん

だが「嘘でいいんだよ!…映画なんだから」と大人の童話なんだ。上品でウィットが利いて、皮肉でユーモラスで、贅沢で美しく、

そして観客をハラハラ、ドキドキさせて喜ばす。ヒッチコック先生、あんたも人が悪すぎる…。

ヒッチコックほど観客を手玉にとる人はいない。計算し尽くしているのだ。プロットの中に巧みに地雷を潜ませておいて、観客の苛立ち

と不気味さが頂点に達する時に爆発さすのだ。突発的ショックである。会社の金を持ち逃げしたマリオンが、執拗にパトカーに追け回さ

れたり、母親の話になるとにわかに目つきが変わるノーマン。剥製、雨、不気味な家から女性のわめき声。突如、シャワー、カーテンに

影、顔、シャワー、ナイフ、悲鳴、足、排水口、血が吸い込まれていく。恐怖、ショック、エロティシズム、残酷、このカット割りの見

事さ!おまけに主人公であると思わせていた人物が死んでしまうから観客は宙ぶらりんになってしまう。つまりサスペンスなんですね。

このシャワーシーンはタイトルデザイナーのソール・バスの絵コンテに基づくそうだ。そういえばアメリカ映画の制作背景には徹底した

絵コンテ(まるで劇画そのもの)があるのだ。「間違えられた男」の絵コンテなんてそれはもう!ヒッチコックはシナリオにいっぱい書

き込み、光と影と表情まで計算され尽くされ、映画を作る前に「絵」「カット」「演技」「流れ」によって紙の上で出来上がっているの

だ。わが国では黒澤明監督の絵ぐらいしか知らないが、この辺が違うのだ。最近の邦画やTVはレンズの性能が上がりデジタルなのでベタ

光線、何ともツマラない陰翳の表情のない平面的画面ばかりだ。制作者の美意識の劣化は眼を背けたくなる。見ていてこちらが恥ずかし

くなるから、まず映画館には足を運ばないし、こんなものに金を出したくない! あの黒澤明、小林正樹、木下恵介の素晴らしいシナリオ

と映像は何処へ行ってしまったのだ。くたばれ!頭の悪いお子様ランチ日本映画め!…..スマン、スマン、つい激昂して。

…..閑話休題、そして映画には感情同化作用があるので、ついノーマンに同化してしまい、あの車を沼に沈めるシーン。沈んでいくと途

中で止まる。オイオイと観客に思わせて一呼吸おいてまた沈む。心憎いね。そして探偵が突如襲われ顔のアップから階段を転げ落ちるシ

ョッキングさ。….最後のシーン、ノーマンの気味悪い顔に母親の木乃伊、骸骨の歯が重ねられる。恐さが余韻を引くのですね。

ヒッチコック先生、ここまで観客を嬉しくも、いたぶり、なぶりものにするのか! 裏でおとぼけヒッチの顔が浮かびますね。

「ONE SHOT ONE KILL・兵士になるということ」映画を見た。海兵隊の新兵の12週間にわたる訓練ドキュメンタリーなのだが、

いままでに「フルメタル・ジャケット」「ハートブレイク・リッジ」「GIジェーン」とかたくさんのアメリカ製戦争映画を見て来た

ので、いまさらブーツキャンプ映画を見てもああこんなものかと。ドキュメンタリーでありのままを淡々と描き、判断するのは観客

だ。と言われても正直に映画は退屈だった。入隊、軍曹が怒鳴りまくり48時間眠らさない(旧日本軍では娑婆っ気を抜くとビンタ)、

マーシャル・アート(昔ベニー・ユキーデという格闘家がいたね)。ライフル射撃、演習風景が延々と続く…。マイノリティやカラ

ードの貧しい階層の若者が軍隊をステップとして上昇したい、自分を試したい。そんな普通の若者を「戦争機械」として作り上げる

軍隊という機構、彼らは次により専門的訓練を受け、ジャーヘッドでレザーネックの殺しのプロフェッショナルとして海外の戦場に

行く。そして殺し殺され傷を負い悲劇が連鎖していく。この映画に出演していた若者もいま沖縄やイラク、アフガンにいるのだろう

か。死んだ者もいるのだろうか。…..私が子どもの頃には戦争から帰った大人がまわりにいっぱいいた。戦争の自慢話、虐殺の話、

内務班の陰惨な虐め(野間宏の「真空地帯」、五味川純平の「人間の条件」に克明に描かれている)ビンタやバッターでぶん殴られ

た話。飢餓の話、ラーゲリの話….。それがどこにでもいる普通のオジさんたちであった。

「御国のために」「天皇のために」「国防」「平和と正義のために」…..。美しい言葉と同時に「人間は自分の属する社会や組織に

対する忠誠のために喜んで人を殺すのだ」。裏でそれを平然と命令し煽り立てる人間がいる。「最近の若者はだらしない。軍隊に入

れて鍛えればいい」こんな発言をする爺さんや企業家がいる。地獄の特訓だとさ。その若者は君の息子じゃないか!

「愛国とは悪人の最後の逃げどころ」とは真実を突いている。…..国体護持という名目のためにどれだけ多くの兵士と市民が死んだの

だろうか。国体とは何なのだ?兵士と市民の死を犠牲にして権力を謳歌し、武器で儲け、戦争で儲け、自分とまわりだけの幸せを願う。

勝手なものだ人間は。

●ONE SHOT ONE KILL…兵士になるということ...藤本幸久/監督、製作・著作/森の映画社

●「兵士に聞け」「兵士を見よ」「兵士を追え」杉山隆男 小学館文庫:自衛隊の兵士の立場から見、密着したノンフィクション。