Archive for the ‘美しきもの見し人は’ Category

デュエンデとはスペイン語で「小鬼・ゴブリン」を指すが、フラメンコでは「謎めいていて言葉で言い表せない力」のことだ。

そう、誰もが熱く感じるもの。それはブルースでは「ソウル」であり、バッハでは「祈り」であり、音楽や舞踊の「魂」と呼ばれる

ものだ。世間では「魂」とお頭が弱そうなタレントやマスコミがお気軽に使うが、とんでもない!滅多にそんなものにはお目にかか

れるものではない。……..80年代、バルセロナ・オリンピックが囁かれた始めた頃だ。カルロス・サウラ監督の映画「カルメン」が

封切られた。その熱さとエネルギー、そしてアントニオ・ガデスの演出に驚嘆した。それまでパコ・デ・ルシアにぞっこん参ってい

たのだが、何と!パコも出演しているではないか! とにかく凄い! ほんとうに凄いのため息だった。

フラメンコというアドレナリン過多の音楽・舞踊は、インド北部からジプシー、ロマ、ヒターノ、ジタン、ツゴイネルと様々に呼ば

れる流浪の民が、スペイン・アンダルシアに流れ着くまでに通ってきた土地々の民族音楽・舞踊が混淆し生まれたという。

そう、フラメンコは文化と歴史の坩堝なのである。地鳴りのようなギターと身体の奥底から絞りだすようなカンテ(歌)、愛、裏切

り、嫉妬、恨み、復讐、哀切 …. 男と女、人間の情念が熱り出す。床を踏みならすステップ(サパテアード)手拍子(パルマ)、カス

タネット、オーレ!の掛け声。….ヨーロッパの西の果てスペイン、かって世界を席巻し富をかき集め、いつか衰えていった国、画家

の中の画家ベラスケス、宮廷画家の絶頂から戦争と人間を見過ぎたゴヤを生んだ国。そして隣のポルトガルには「ファド」がある。

 

ところがガデスは今までのフラメンコとは全く違うのだ。洗練され計算され怜悧な知性に裏付けされ、それでいて奔放、激しく熱い

情念の波動があるのだ。タブラオの素朴さと泥臭さもいいが、高みを目指し芸術に昇華されたバレェの緻密でリファインされた極致

の美があるのだ。始めて眼前で踊る姿を見た衝撃、抜き身のナイフを感じた。白刃の刃鳴りが聞こえるのだ。円が大きいのだ。感覚

が研ぎすまされ、指先の末梢神経にまで力が漲り緊張の極みに達するのだ。ストイックでそして熱いデュエンデがほとぼり出すのだ。

そしてカルロス・サウラという監督を得て映画となった。ドキュメンタリー手法と劇中劇としての映像も素晴らしいのだが、舞台は

映画以上に映像的なのだ。「血の婚礼」における緊張の一瞬の場を凍りつかせる写真的静止、決闘シーンはハイスピードカメラ撮影

そのものを踊るのだ。「カルメン」「血の婚礼」「アンダルシアの嵐」「恋は魔術師」これらは舞台と映画と両方を見たがやはり舞

台の方が素晴らしかった。サウラ監督には他にも「タンゴス」「フラメンコ」というドキュメンタリーもある。

そしてガデスにはクリスチーナ・オヨス(舞台では彼女がカルメン)、ファン・ヒメネスという名手たちも忘れることができない。

またスペイン国立舞踊団の創設期の監督はガデスだった。あのラベルの「ボレロ」の振り付け、そして「王女メディア」の…….

2004 年ガデスは逝った。享年 67 歳。
幕は降りた。そう、ビセンテ・エスクデロのように栄光に包まれて….。生涯決して魂を売らな

かった男。フランコ政権時代には踊りを拒否して他国で生きた男。フラメンコをバレェの高みと芸術にした男。

ガデスの名は永遠にガデスである。

〜ソンブレロ 俺のソンブレロ お前は俺の宝物 闘牛場にかぶって行くと 闘牛士にも張り合える

                  〜 俺はお前が好きだ これにはある人の 口づけが縫い込んであるから〜

●カルメン・アマヤの「タラントス・バルセロナ物語」では若きガデスのファルーヵが見られる。

そいつは倦怠というやつだ。…… 偽善の読者よ、同胞よ、兄弟よ。ボードレール:悪の華

フロルッサス・デ・ゼッサントという男がいる貴族の末裔であり同族婚による劣勢遺伝子のためか病弱で過敏過ぎる神経症、

E.A.ポーのアッシャー的人物だ。かっては放蕩を快楽を蕩尽し、19世紀末のブルジョワ民主主義と効率至上主義を嫌い、ひた

すら趣味と洗練と美意識のためにひきこもり人工楽園をつくり上げる。自己趣味に徹した内装とラテン文学、ボードレールと

マラルメの詩、食虫花や人工花、香水幻想、口中オルガンと称するリキュールの微妙なカクテル、音楽、幻想美術について延々

と語られるのだ。デカダンス文学の聖書とも評されるが、誰だって自分の趣味嗜好の世界。そう、自己の糸で紡いだ繭のなかで、

温々とした羊水に浮かぶ胎児のように幻想に漬りたいのだ…。

船を模した造りにアクアリウム、奇矯なオレンジ色の部屋、東洋の絨毯をより引き立てるために黄金と宝石を散らした鎧を亀に

着せ、神経症による幻覚と、空想のなかで人工的技巧美を熱愛し、反自然的なものを求め続けるのだ。

「本物の花を模した造花はもうたくさんで、彼がいま欲しいと思っているのは、贋物の花を模した自然の花であった」。

またジャック・カロやヤン・ロイケンの残酷さに満ちた絵画、そしてルドンの不安をかき立てる版画、モローの「サロメ」は淫

蕩とヒステリーの呪われた女神である。ゴヤの絵を(カロは1633年にエッチングによる「戦争の惨禍」を描き、ゴヤも1810年に

「戦争の惨禍」を同じく版画で描いている)壁に掛け、趣向と追求の饒舌ぶりは果てがない。

旅に出ようと思いパリの駅まで行くが、結局想像力でどこへでも行けるとすれば行く事も無いと帰ってる….。

衰頽した精神、沈鬱な魂、移ろいやすくも繊細な神経。無為と懶惰と倦怠の裡に身を沈めるのだ。最後には医師から、このまま

では神経症は快癒しないので、パリで普通の生活を命じられる。….彼は「己の投影・夢の宮殿」住居を引払うのだった。……..

.ただ根底にあるカトリシズムへの憧憬と反発、その奥にあるものは日本人の私にはとても掴むことが出来ない。文化の根本的差

異であろう。全編に流れるのは第六感ともいえる「美意識」。通俗と俗悪を嫌い、意識と知性の高揚のために「美」を求めるのだ。

●ジョリス=カルル・ユイスマンス/著 澁澤龍彦/訳 光風社出版: 翻訳は流麗で訳者による丁寧な註がまた素晴らしい。

重苦しく雲が低くかかり、もの憂い、暗い、寂寞とした秋の日もすがら、私はただ一人馬にまたがり妙にもの淋しい地方を通りすぎて

行った。そして黄昏の影があたりに迫ってくるころ、ようやく憂鬱なアッシャー家の見えるところへまで来たのであった。

…..私は眼の前の風景をながめた。….阿片耽溺者の酔いざめ心地….日常生活への痛ましい推移….夢幻の帳のいまわしい落下….といった

もののほかにはどんな現世の感覚にも例えることのできないような、魂のまったくの沈鬱を感じながら。心は氷のように冷たく、うち

沈み、痛み、…..どんなに想像力を刺激しても、壮美なものとはなしえない救いがたいもの淋しい思いでいっぱいだった。

…..ほとんど眼につかないくらいの一つのひび割れが、建物の前面の屋根のところから稲妻状に壁を這さがり、沼の陰気な水のなかへ

消えているのを、見つけることができたであろう。

エドガー・A・ポーの「アッシャー家の崩壊・The Fall of the House of Usher」1830。この話を知ったのは小学生の頃、姉がラジオ

の朗読で聞いたのを語ってくれた。最後の「血のように真っ赤な月が…」。何と言う表現だろう眼前に赤い月が見え戦慄を憶えた。

それ以来ポーには心酔している。あまりにも有名でいまさらストーリーや解説をしても始まらないが、冒頭の一節だけで寂寥とした風

景描写にこれからの物語に没入させてしまうのだ。陰鬱な屋敷、その微かなひび割れの描写が最終節に大きな意味を持たせているのだ。

この巧妙な計算!….そしてアッシャーの譚詩バラッド、これはおのれの人格が崩壊していく様を詠っているのであろう。

….王なる「思想」の領域にそは立てり!そして狂気に堕ちいるいる様を….かくて今この渓谷を旅ゆく人々は 赤く輝く窓より、調べ乱

たる楽の音につれ 大いなる物の怪の踊り狂い動けるを。また蒼白き扉くぐりて 魔の河の奔流のごと恐ろしき一群走り出いで、

高笑す、されどもはや微笑まず。…..叡智に輝いていた二つの窓、怪しき赤き窓とは双眼のことなのだろう。

そして終節に至って….このその輝きは、沈みゆく、血のように赤い、満月の光であった。月はいま、その建物の屋根から稲妻形に土台

までのびている、たあの亀裂を通して輝いているのであった。…..幾千の怒濤の響き、長い、轟々たる、叫ぶような音が起った。

―そして、私の足もとの、深い、どんよりした沼は、「アッシャー家」の破片を、陰鬱に、音もなく、呑のみこんでしまった。

ポーの素晴らしさはスプラッターになりがちな恐怖譚を知的で美意識に満ち、芸術にまで高める品性である。以後のおびただしい他の

恐怖譚と一線を画しているのだ。ぼくはポーの素晴らしい作品群のなかでも「アッシャー家の崩壊」が最高作と信じている。

“The Masque of the Red Death”「赤死病の仮面」1842年。純粋な想像力は美しさあるいは醜さから今まで化合されたこのないもの

でもって作られる…..この精神の化学作用において…..醜いものからさえもそれが想像させる唯一の目的であり、同時にまた想像力の不

可避的な験である….(想像力)。…..美しさを製造することにおいてポーはこのように語る。光輝、燦爛、峻刻、幽玄、怪異、人工美、

技巧、計算。「赤死病の仮面」の精緻さは特別である。まずおどろおどろしい赤い死、僧院の閉鎖空間、青、紫、緑、橙、白、菫、こ

の色彩の氾濫のなかを豪華絢爛な仮面舞踏会の渦がある。艶やかで、夢幻的で、グロテスクで、奇異で….、そして真っ黒な天鵞絨のタ

ペストリーで被われた第七の部屋を赤の瑠璃玻璃を通した篝火が揺らめく。黒檀の大時計が時を告げ、その時オーケストラもワルツに

興じる人々も一瞬動きが止まる。ここに経帷子の赤い死が現れるのだ。…..「それは夜盗のように潜入し、宴の人びとは一人また一人と

彼らの歓楽の殿堂の血濡れた床にくずれ落ち、その絶望的な姿勢のまま息絶えていった。そして黒檀の時計の命脈も、陽気に浮かれて

いた連中の最後の者の死とともに尽きた。三脚台の焔も消えた。 And Darkness and Decay and the Red Death held illimitable domini

あとは暗黒と荒廃と「赤死病」があらゆるものの上に無限の支配権を揮うばかりだった」。八木敏雄/訳

ポーが想像した恐怖と人工美の極みである。この短編はゴシック・ロマンスだが二世紀近い時を経てもこれを超えるものは知らない。

音楽では、Andre Caplet作曲:ハープと弦楽四重奏のための「赤死病の仮面」があるが、ぼくの趣味ならバロックからロココの明るい

宮廷音楽にしたい。弦楽のさざめきとチェンバロの音色。それに時おり、重々しい大時計の真鍮の肺臓から深暗な音が鳴り響くのだ。

SF、サイエンス・フィクションは科学的背景を基盤にイマジネーションを広げるから空想科学小説と言われる所以だ。荒唐無稽の冒険

譚と言ってしまえばそれまでだが、いかに面白く、いかに驚異であるかに技巧の術を凝らすのだ。

エドガー・A・ポーの「メエルシュトレエムに呑まれて」緻密な計算と絶妙の技巧、その素晴らしさに思わず引き込まれてしまう。

冒頭に白髪の老人と崖上から海を眺めながらダイナミックに変化する模様が描写される。崖上は烈風が吹きすさび、腹這いで灌木に

しがみつく描写には思わず高所恐怖に襲われる。….そして白髪の漁師の体験が語られるのだが、大渦に呑まれ、めまぐるしく旋回する

船上でパニックと冷静な観察眼の二律背反の眼で話が語られるのだ。咆哮と鳴動の大渦、漏斗の内部は眼の届くかぎり四十五度の傾斜

の壁であり滑らかに輝く黒檀であった、底なしの深淵に揺らめき喘ぐ水蒸気、それに時と永遠への架け橋の虹が架かり月光が照らす。

何と言う幻想的で美しい情景だろう。叫喚と静寂の対比だ。めまぐるしい動きのなかで漏斗の渦の壁に見る形状による沈下速度の差、

ここには物理的な観察眼があり、恐怖と美と詩的でありながら、数学的ともいえる落下風景をアンチノミーで見せる。そう、ポーの視

覚的描写は、眼前の出来事のように映像を喚起させるのだ。 ポーは映像作家だ。精緻な計算が夢を見ている時に感じる現実性と恐怖

を読者にイマジネーションとして創り出させるのだ。人工的、技巧的、幻想美、彼の頭蓋のなかにはどんな世界が交錯しているのだろ

う。そしてこれが書かれたのは約180年前だ。ポーの近代性は時を越えている。アーサー・C・クラークが宇宙のメエルシュトレエムを

描いたのも頷ける。…余談だが「一夜にして髪が真っ白になった」とよく聞く。それは恐怖や心理的ストレスによるのだという。ポー

の時代にもそんな噂話はあったのだろう。しかし私が思うにこの「メエルシュトレエムに呑まれて」が発表され、世界に翻訳され、我

が国ではポーに心酔していた江戸川乱歩によっても「一夜にして白髪」話が書かれ、人口に膾炙していったのではないか?生理的には

恐怖のあまり髪の毛が逆立ち、その時毛根に空気が入り白くなるというのだが….。同窓会なんかで何年も会わないかった知人に会うと、

頭が真っ白で驚くことに出くわすが、これも記憶と時間の錯覚がもたらすのだろう。私も両鬢に白いものが目立って来た。

…白頭掻けば更に短く…か…歳を取る…恐怖だ恐怖だ。

Once upon a midnight dreary,

while I pondered, weak and weary,

Over many a quaint and curious volume of forgotten lore,

While I nodded, nearly napping, suddenly there came a tapping.

As of some one gently rapping,
rapping at my chamber door.

” ‘Tis some visitor, “
I muttered .

” tapping at my chamber door, 
Only this and nothing more. ”

むかし荒凉たる夜半なりけり

いたづきみつれ黙坐しつも
忘郤(ぼうきゃく)の古學のふみの奇古なるを繁(しじ)に披(ひら)きて

(こう)ねいのおろねぶりしつ交睫(まどろ)めば
忽然(こちねん)と叩叩の欸門(おとない)あり。

この房室(へや)の扉(と)をほとほとと
ひとありて剥啄(はくたく)の聲あるごとく。

儂呟(われつぶや)きぬ
「賓客(まれびと)のこの房室(へや)の扉(と)をほとほとと叩けるのみぞ。

さは然(さ)のみ あだごとならじ。」

日夏 耿之介

“Lord, help my poor soul.” 主よ、哀れな魂をお救いください…。エドガー・アラン・ポー最後の言葉だと言われる。この耽美的、

神経的、憂鬱症、幻想、幻影、ネクロフィリア、アルコール中毒、闇にひっそりと浮かびあがる美しい女、心を震憾させる想像の

風景、イマジネーションの宇宙。……の男はあまりにも感性が強過ぎる人物と思われているが、実際は論理的で計算に優れ冷徹な

科学者のような頭脳を持っていたのだろう。「ユリイカ」「ハンス・プファールの無類の冒険」「シェヘラザーデの千二夜の物語」

「メルツェルの将棋差し」などを始めその小説や評論の背景には当時の最新の科学知識に基づいて創作されている…SFの父だ。

史上初の諮問探偵を創り「黄金虫」は暗号解読、「使い切った男」はサイボーグだ。「ウイリアム・ウィルスン」は二重人格だし

「群衆の人」は現代の孤独を先取りしている。なんという凄い直感と頭脳だ。そしてあまりにも美しく音楽的で静謐で奇怪不思議

に満ちた詩の数々…..底なしのイマジネーションの深淵を覗く。….ぼくの英語力では深く理解することができないが、原文で読む

より翻訳が素晴らしい。日本語の曖昧で多彩な語彙と表現。日夏 耿之介は格調高く(難解だが優美)ゴシック的な耽美の世界だ。

谷崎精二訳の「アッシャー家の崩壊」、あの嵐の夜にアッシャーがリュートで弾き語る即興詩なんて…嗚呼。

●「大鴉」昔、古本屋で何気なく見つけた詩の本、それが上記の写真。挿絵がギュスターブ・ドレ、夢幻への耽溺だ。

●「黒夢城」写真家サイモン・マースデンのエドガー・A・ポーの世界。崩壊の古城、深閑の墓地….廃墟がひたすらに美しい。

1枚の写真がある。一人の裸足の少年が幼児を負い直立不動で立つ、ただそれだけのモノクローム写真である。初めて見た時、背筋

に戦慄が走った。慄然とし、そして涙を禁じ得なかった。写真が持つ力とは何なんだろう? どうしてこんなに心に迫ってくるの

だろう?…..僕は時空を越えてカメラマンの立つ場所に立ち、彼の視点で見ている。そして自分を少年に同化させ、また死んだ幼児

にも自分を重ね合わせてしまう。少年の負った過酷なドラマも想像してしまうのだ。彼の両親は原爆で亡くなったのだろうか、背の

児はたぶん弟なのだろう…。時代の風潮として軍国少年で育った彼は、男なら決して涙を流してはならないし、大和男の子として身

じろぎもしない姿勢こそが少国民の誇りと教えられたのであろう。

….僕は戦争の記憶は全くないが背の幼児が生きてていればおそらく同い年のはずだ…。

撮影者ジョー・オダネル氏は…。長崎で死体を燃える穴の中に次々と入れている焼き場に10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留

まった。おんぶ紐を襷にかけて、幼子を背中に背負っていた。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くし

ていた。「少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶ

紐を解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。男達は幼子の手と足を持つとゆっくり

と葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆい程の

炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。

その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年があまりきつく噛み締めている為、

唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、

沈黙のまま焼き場を去っていきました」。「写真が語る20世紀 目撃者」(1999年・朝日新聞社)より

Joe O’donnell (ジョー・オダネル):
1923年、アメリカ・ペンシルベニア州に生まれ、海兵隊に入隊、米軍調査団カメラマンとし

て被爆直後の長崎を撮影。戦後ホワイトハウス付カメラマンとして、歴代の大統領の写真を撮影。
上記写真のネガは長らく自宅の鞄

にしまい込まれていたが89年に米国内の反核運動に触発され鞄を開け、90年米国で原爆写真展を開催。日本では写真集「トランクの

中の日本」(小学館 )。 
2003年に長崎を再訪問し、撮影した当時の少年・少女と再会。07年8月9日没。 


「焼き場に立つ少年」1945年長崎 撮影 ジョー・オダネル

ジョー・オダネル氏についてNHKの番組を以下のYOU TUBEで見る事ができます。

http://www.youtube.com/watch?v=kLju7NmoHQ4

げに泉のごとも涸れはてん、ひと息ごとに毒を吸ひ ひと花ごとに死を嗅がむ、美はしきもの見し人は げに泉のごとも涸れはてん

                                         アウグスト・フォン・プラーテン・生田春月訳

ビザーロ(変奇)、カプリッチョ(快い面白さ)、ヴィルトウオジタ(技巧)、フィギューラ・セルペンティナータ(蛇状曲線様式)、

グラツイア(優美)…..。見えるものは本物の幻影にしか過ぎぬ。自然(ナトウーラ)が本物の実在であるなら、じゃ鏡は何だ。

また絵画も写真も実在を写すが、そこはキャンバスやフィルム、データ上の虚像である。マニエリスム美術の面白さは洗練が行き着く

ところの虚像の楽しみである。不安な時代の精神の反映か、人眼をあざむく歪んだ空間、幻想的寓意、極度の技巧性(マニエラ)と作

為、引き延ばされ蛇行する非現実的身体…。画家の「首の長いマドンナ」を見よ。これぞ技巧の頂点、この上もなく美しい。

マニエリスム美術が誘う世界は、「嘘をつく似姿からほんとうの感情を汲む」と言った詩人の言葉に尽きるのではないだろうか。

上のパルミジャニーロ「凸面鏡の自画像」凸面鏡に映った姿を凸面の半球に描き、歪曲した空間に巨大な手がある。いまなら魚眼レン

ズやフォトショップのフィルタで簡単につくれるが….。これは画家が21歳の頃の作といわれるが、己を見る顔は美しい少年の面影であ

る。わたしの大好きな絵である。本物は見た事はないが、大塚美術館でレプリカの凸面の立体画を見た。本物の持つ感動は無理だが見

とれてしまった。…画家は非常な美形であったと伝わるが、錬金術に傾倒した晩年は別人と思われるほど老廃した姿を映し出している。

晩年といってもまだ37歳だった。ビザーロとカプリッチョ、3D時代にわたしたちは何を見るのだろうか。

映画「カラヴァッジオ」を見た。監督:アンジェロ・ロンゴーニ(製作イタリア)。バロックの画家ミケランジェロ・メリージ・ダ・

カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi Caravaggio 1571〜1610)、37歳で逝った天才の波乱に満ちたスキャンダラスな生涯を描く。

時代考証も確りし、絵画製作過程も再現している。「果物籠」「蜥蜴に噛まれる少年」「バッコス」「聖カタリナ」「いかさま」

「ユディト」「蛇の聖母子」「洗礼者ヨハネの斬首」など有名なものはほとんど網羅している。俳優も絵のそっくりさんを使い、制

作の様子も映像として再現していて面白い。「聖マタイの召命」動画を一瞬で切り取ったようなダイナミックで劇的な絵だ。この光

を見つけるシーンは興味をかき立てられた。この絵の明暗法は、後に夜の画家と言われたラ・トゥール、そしてあのレンブラントへ

と発展していく。あの17世紀前半に光と影の明暗、まだ広角レンズの無い時代に短縮法描く迫力など、ほんとうに時代を越えている。

モデルは市井の人間であり、俗っぽい笑みや厭らしさがより人間を見せつけるのだ。人間の持つ生臭い俗を描くところが何とも凄い。

映画は伝記に忠実であるのはよいのだが、内面を描こうとするあまり「ペスト・死」の象徴としての黒騎士の悪夢は余計だと感じた。

(PTSD? また映画アマデゥスの影響か?)また音楽で盛り上げようとして不快な不協和音を使ったり、クロスカッティングで絵を見

せるところは使い古された手法だし、もっとバロック音楽の華やかさの裏の悲しみや押さえた演技が欲しかった。(前にデレク・ジ

ャーマンの「カラヴァッジョ」も見たが監督がゲイであるだけにホモセクシャル映画であった)。

凄い絵といえば残首されたカラヴァッジョ自画像を描く「ゴリアテの首を持つダヴィデ」は恐ろしい絵だ。これもアレッサンドロ・

アッローリが「ホロフェルネスの首」にカラヴァッジョの強い影響を見る事ができる。….1610年7月18日、希代の画家ポルト・エル

コーレで死す。…..カラヴァッジのすべてを見たいのだが、そんなことは不可能だし画集や本で辛抱しているのだが。

●「カラヴァッジオ」ミア・チノッティ 森田義之 訳 岩波書店:その生涯と全作品、A3判で印刷も良い。全作品カタログ付。

●「カラヴァッジョ灼熱の生涯」デズモンド スアード 石鍋真澄・真理子 訳 白水社:波瀾万丈の生涯を史料と研究をもとに描く。

●「カラヴァッジオ鑑」岡田温司 編 人文書院:フリード、ロンギまで、論者17名によるカラヴァッジョの世界。

●「カラヴァッジオ」宮下規久朗 名古屋大学出版会:血と暴力に彩られた破滅的な生涯を描く。彼は多くのカラヴァッジオを書いて

 いる。彼の市民講座にぼくも通っていたことがあるのだ。なかなかユニークな人で顔までカラヴァッジオ風の異才である。


昨年7月にマース・カニンガムが亡くなったという記事を見た。いままで意識に無かったことが一瞬に浮かび上がった。

クオリアというそうだが映像が頭の中に見える。記憶データとはどんな風に仕舞われているのだろうか?イメージとい

うぼんやりしたものが圧縮され細胞や神経繊維に記録されているのだろうか? それとも振動する波のようなものか?

あれは1964年だった。マース・カニンガム・ダンスカンパニーが神戸に来たのだ。音楽はあのジョン・ケージ、美術は

何とロバート・ラウシェンバークだ。前衛という言葉が生きていた時代だ。… ぼくはモダンジャズにハマっていたし、

インプロヴィゼーション、チャンスオペレーションなんて言葉に畏怖さえ感じる純情さの生意気兄ちゃんだった。

驚いたね!暗い舞台に麻袋に入った人体が身をよじり芋虫のようにのたうつんだ。そして時間を考えさせられるケージ

の音楽…。バレェという歌舞伎みたいな常識しかなかったぼくには衝撃だった。そして「冬の枝」における群舞。モダ

ンダンス —モダンということは現在の今であり、絶えずクリェイティヴしながら前進する時間の先端なんだと…。

いつしかモダンという言葉自身に手垢がつき懐かしい響きとなった。…いまを生きている意識を忘れちゃだめだね。

●このパンフレットに新しいデザインを感じた。装丁レイアウトは粟津潔。